戦国武将について

このトピックは 10件の返信 を含み、 3投稿者 が参加し、  佐村河内 1/11(月)19:33 によって最後に更新されました。

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  • #9395

    佐村河内
    参加者

    24のトップページアンケートで好きな武将のアンケートが始まりましたので、文字で書き込めるトピックを立ち上げます。

    #9396

    佐村河内
    参加者

    アンケートでは歴代大河ドラマの主役の武将が候補に挙がりました。
    日本人は判官びいきで、家康の人気が低く、秀吉の人気が高いという説が言われていると思いますが、アンケート開始時点では、家康14%、秀吉4%という意外なスタートになっています。首位は信長の16%。

    #9397
    ペンギン
    ペンギン
    ブロック済み

    ゆるキャラの人気投票で家康のイメージがアップしてたりして(^^;

    #9398

    佐村河内
    参加者

    なるほど有力な説でしょうね^^
    例外もありますが知将の人気が高い気もします。

    #9553

    佐村河内
    参加者

    「真田丸」がスタートしました。
    生まれてから死ぬまで話題には事欠かない武将だと思いますが、武田家末期からスタートしたので一瞬戸惑いました。幼少期からスタートすると思っていましたが、第一話は楽しく見ることが出来ました。

    #9559

     大河ドラマを見てはいないですが、あの主人公にしてそこからのスタートは、ほぼ妥当な線でしょう。
     私の故郷信州と深く関わる話ですが、真田氏が世に出るのは、幸村(古くは真田信繁を名乗っていた)の祖父・真田幸隆氏が一族を連れて信玄(当時は武田晴信と名乗っていた)に従った時からで、その時以来、”夜襲・奇襲・城乗っ取り”が真田氏の”三大お家芸”として、当時甲州(山梨県)から信州(長野県)征服を目論んでいた信玄(武田晴信)に寄り、重用されていきます。

     信玄の死(1573年=元亀三年/天正元年)後、1575年(=天正三年)にあった、あの日本史教科書に必ず出てくる”長篠の戦い”(当時の文献では”設楽が原の大会戦”。名前を”長篠の合戦”と決定したのは、旧日本軍大本営陸軍本部)にて、幸隆の長男・次男真田信綱・昌輝兄弟が戦死した都合上、それまで武藤家の養子になっていた幸隆の三男、武藤喜兵衛昌幸が旧真田氏に復し、真田左衛門之丞昌幸(真田昌幸)と名乗り、信玄の跡取り武田勝頼の軍師として、重用されていきます。その次男が真田大助、後に真田信繁、最後は真田左衛門之丞幸村となる、物語の主人公です。

     以上、簡単に述べてきましたが、幸村が世に知られるのは”真田幸村”時代の後半生の更に最後の部分のみで、父昌幸が武田氏に属していた時代、その後武田家滅亡後に”真田信繁”と名乗っていた時代の彼については、実はよく分かっていません。ですので、何某戦国ゲームの中で、”幸村”が既に”長篠の戦い”で活躍することになっているのは、明らかに史実を無視した設定だと言えます。

     

    #9566

     *上記に誤りがあったので、訂正します:

     (誤)真田左衛門之丞昌幸→(正)真田安房守昌幸

     *『左衛門之丞』は幸村が最期、大坂夏の陣で討ち死にする時点での最終官名、父昌幸の、武田滅亡時における官名は”安房守”でした、失礼^^

    #9569

    佐村河内
    参加者

    10年以上前に真田関連の本を複数読んだことがあるのですが、幸村の幼少時は、方々に人質に出された人生で、真田家来の手引きで上杉家から脱走した話を読んでいます。武田家の人質時代では、信玄に小姓として可愛がられ、小姓時代に色々と学んで優秀な武将となる基礎となったと書いてあります。一般の戦国武将の本では、大名の次男として武田信繁が尊敬されており、次男である幸村に「信繁」の名を頂きたく、真田昌幸が武田信玄に願い出て真田信繁を名乗る許可を願い出たとかの話を読んでいます。
    H.yanoさんは、これらの話は創作であると解釈されますか?
    大河ドラマでは、佐助も登場しており、佐助自体は私は創作であろうと思っています。

    #9570

     ”信玄(武田晴信)の傍近くに仕え、身近に戦略を学び取った”のは、父昌幸の方ですね。昌幸の父(つまり真田信繁=のちの幸村の、その祖父)である真田弾正忠幸隆が信玄の直臣で、その子、つまり幸村の父昌幸が、その傍近くにいて様々な戦略を学び取ったのです。ある時信玄は、傍近くに仕える二人、真田昌幸と曽根匠を指し、”余の右目・左目”と言ったと伝えられていますから。信玄の死(元亀三年/天正に改元して天正元年=1573年)の時点で、幸村はまだ子供で、昌幸の次男として”大助”と呼ばれていた頃ですから、さすがに無理があると思います。

     但し、幸村が元服して最初に名乗った”真田信繁”この名は、祖父(つまり昌幸の父)弾正忠幸隆が信玄に心酔しており、又昌幸は信玄の実弟武田左馬之助(典厩)信繁の武勇にあやかりたいと思い、信玄の生前に自分の子にその名前を分けていただくという、確約を取っていたというのは、その通りのようですね。

    #9571

    佐村河内
    参加者

    なるほどありがとうございました。
    昌幸と幸村を一部混同してしまいました。

    #9572

    佐村河内
    参加者

    混乱したせいか時系列がぐちゃぐちゃになっており、整理するのに時が掛かることが分かりました。迷惑を掛けた方にお詫びします。

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